このページは、業界でウワサの「お魚情報館」の兄弟ページです。(^_^;)

ウナギ情報館に戻る。

ウナギと梅干しの食い合わせについて                ウナギのリンク集
この文章は、おさかなML(fishml)会員の加藤さんからいただいたご意見です。
  • 現在のような蒲焼きがいつ頃完成されか?については諸説あるようですが、概ね元禄の終わりから正徳の始め頃のようです。
  • 関西で発明された調理法が関東に伝えられそれに改良が加えられ、現在の蒲焼きが完成されたと言われています。
    これは関東派の言い分だとは思いますが・・・。こう観ますと発明者と完成者の意識的対立は当初からあったのかもしれません。が、ここでは都合上江戸を中心に話を進めさせて下さい。
    その以前の蒲焼きはどんな物かと言いますと、ウナギをぶつ切りにして串に刺して焼いた魚田楽みたいな物だったらしいと言われています(「東海道名所記」;文禄三年)。
    これはごく庶民的な食べ物だったのですが、一方完成された蒲焼きの方は、「土用の丑」の由来と言われている「春木屋善兵衛」の話でもお判りのように、高級料理でした。
  • 余談になりますが、貝原益軒はこのような蒲焼きは知らなかったと思います。彼は 1713年に 81歳?で没していますし、「養生訓」にあるような生活を実践していたとすると老年(当時の)になってからウナギは食べなかったと思います。
  • 1716年紀州の吉宗が八代将軍となって宗家を継承し元禄・正徳時代は終わります。
    すでに江戸では高級料理として多くのウナギ屋が隆盛を迎えていたと思います。
    紀州の梅干しは、当時すでに著名な物産でした。これは紀州時代の吉宗の農業政策に由来すると言う説もありますが、詳しくはわかりません。
    ついでに、東京で「梅干しを舐めるような」というのは吝嗇(りんしょく=ケチ)の形容です。
  • 享保六年の奢侈禁止から、いわゆる「享保の改革」が始まります。「ひしとつぶれたもの、下戸に酒おし板と諸役所請負」「なげきかなしむもの諸人万人」と落首にうたわれた(「享保世話」)超引き締め政策の始まりです。
    今の高級レストランや料亭などと同じように接待に使われていた当時のウナギ屋も大変だったと思います。
  • こうした状況の中で、華やかな元禄文化の落とし子であるウナギ屋と吉宗の緊縮政策を象徴する梅干しを、元禄を代表する文人貝原益軒の著作に擬して「江戸の華(ウナギ)と吝嗇(梅干し)は合わねぇよ」と言う皮肉を込めた当時のはやり言葉だったのではないでしょうか。
                                                        1999年8月1日


  
Copyright(C) Aug.1.1999 by Toshio Yabe. All rights reserved