サンマのつかみ取り

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波平 2002.05.20 その昔、紀州辺りでのサンマ漁は、船べりにムシロを浮かべて、ムシロの破れ目からそっと手を海へ突っ込み、集まってきたサンマを手掴みしたとか、何かで読んだことがあるけど、このあたりの消息をもう少し知りたいものだと願っております。
もしご存知のことがあれば、なんでもよろしいから、お教えくださいませんか。
Kiyo Kamijoh 2002.05.21 流石ですね.良くご存じです.紀州ののさんまつかみ漁は、かっては可成り行われていたようです.しかし、昭和40年代までに無くなってしまったのではないでしょうか.
真ん中に穴をあけたむしろを海上に浮かべておき、そこに腕を入れて手に触れたさんまをつかみ採る漁法です.シイラ漬けのように物陰による習性を利用した方法ですが、あるいは産卵の習性かも知れません.
詳しくは調べてみますが、まずはご一報.
波平 2002.05.22 うれしいなぁ、第二報を楽しみに待っております。
そうですか、ムシロの真中に穴を開けていましたか、
破れ目からサンマ掴んだのとはぜんぜん趣が違いますよね、
それで、ハッ! と、気がついたのだけど、ムシロはワラで作りますね。
ワラは稲、稲は米、漁村は水田持ってませんよね、持っていてもチッチャかったのでは、と、いうことは、漁民にとってムシロはあるいは貴重品だったのでは?
Kiyoさん、このあたりのことも、できたら調べてもらえんでしょうか。
変なことお願いしてごめんね。
Kiyo Kamijoh 2002.05.24 反射的にレスを付けたので、勘違いをしてしまいました.
さんま手づかみ漁業は、新潟県佐渡沖が本場でした.
  1. 漁具の構造
    • 米俵6枚をつなぎ合わせ、4尺×9尺にする.
      これに海藻を束にした物を約1尺間隔で多数吊り下げる.
  2. 漁法
    • 春、佐渡沖に産卵のために来遊するサンマを対象とし、米俵で作った上記の物を海面に浮かべておき集まったさんまを手でつかむ.
      早朝に出港し、米俵を3連結した物を船(1〜5トン、1〜2人乗り)の両舷に、1つは船尾側に流し「たらせ」を使って、流しながらさんまが集まるのを待つ.集まると「もじり」が出たり、俵の上に跳ねたりするので、俵の隙間から手を入れてつかみ取る.江戸時代からの漁法ですが、戦後は直径3〜4尺の玉網を使うようになった.
  3. その他
    • 米俵がない場合は、茅を編んだ簀の子を使うこともある.
      経費がかからず、さんまの来遊があれば結構な漁獲になる
 *確かに紀州でも行われていたと記憶しております.
   類似のものが有ったのだと思いますが、確証は有りません.
波平 2002.05.25 貴重な情報ありがとう。とても参考になります。
で、できれば、もう少し教えてくださいな、
1.この情報はどのようにして得られたのでしょう。
2.佐渡と紀州はだいぶ離れていますが、なぜ同様な漁法が両所で行われることになったのでしょう。
  ユニークな漁法だけにとても気になります。糸満漁師がからんでいるのかな?
  また、紀州なりの工夫があるようなら、それも知りたいです。
3.この漁法なら女性でもできそうですね。実際はどうだったのでしょう。
Kiyo Kamijoh 2002.05.25 1,「日本漁具漁法図説」.水産庁に漁業調整関係で集まった資料をまとめた本です.
2,(紀州での操業が未だ確信出来ませんが) これは難しい問題です.
  黒潮流路圏なら、勿論、伝搬したといえますが、この場合は独立発生の可能性も排除できないと思いま   す.共通して定置網が有ること、にしんの流通などを考えると交流、伝搬があったと考えるのが自然と思  います.
   糸満の事は判りませんが、手がかりとして苗字を調べられたら如何でしょうか.
   紀州なりの工夫は、操業実体が不明なので今後、調べてみます.ご協力下さい.
3,「船に女性を乗せない」という原則は、必要により容易に破られる原則であることはご承知のとおりです.しかし、海女、藻刈りなど身体特性 にあったもの以外は、合戦における巴、板額の類で特例に過ぎません.この場合も、予断はできませんが、無かったのではと思いますが、要調査です.
たむやん@釣り人 2002.05.26 佐渡のさんまつかみどりについて、以前、紹介していた本があったなあ、と探したところ、ありました。佐渡ではさんまのことを「バンジョウ」と呼ぶそうです。
このバンジョウが佐渡沖に回遊してくるのが五月雨けぶるころ。
ちょうどこの梅雨の時期が産卵期に当たるようですね。
漁具の構造、漁法は Kiyo Kamijohさん が紹介されていたとおり。
バンジョウの漁場を「バンジョウ場」と呼ぶそうですが、大群が漁具の下についたらしめたもの。
ムシロに空けた穴から手をつっこみ、産卵をしに藻の中に入ってきたものをつかみ取るわけですね。 (サンマだったか定かではありませんが、 藻の中で魚の大群が産卵する様子を、 以前NHKの自然番組が紹介していたのを思い出しました。)
『佐渡四民風俗』(郷土が出版した本と思われます)によると、この佐渡の漁法は江戸時代に能登から伝わってきたそうです。
「日本漁具漁法図説」はどこで入手できますでしょうか?
Kiyo Kamijoh 2002.05.26 「日本漁具漁法図説」は、確か成山堂の発行で、可成り大部な本です.
一般の書店には無いと思いますが、大きな図書館などにはあると思いますので、ご参照下さい.
Kiyo Kamijoh 2002.05.26 さんまの件で女性の参加のご質問がありましたが、波平様の事ですから、質問を発せられた意図、目的が有るのではないかと推測しています.
差し支えなければ、お知らせ下されば幸いです.
又、糸満の漁師の件もどのような繋がりを考えておられるのか、大変興味があります.
波平 2002.05.27 以下は、素人の浅知恵ですからそのおつもりでお目通し願います。
佐渡と紀州の漁法を通してのつながりには、あるいは漂泊民(家船)が係わったのかな、と思ったわけです。3つのことが考えられそうだ。
  1. 糸満漁師のアワビ漁を中心とする遠征は、日本海側では佐渡にまで及んでいるとか、サンマ時期に船べりに群がり来るサンマをみたら、それこそ家中総出で手を突っ込んだに相違ない。
    また、太平洋側では、伊豆・八丈までは糸満の射程距離。
  2. 大昔より、紀州漁民(熊野・泉州)の遠征というか移住指向というかは、知られたところであるらしい。外房のイワシ漁は紀州漁民がもたらしたよ うだし、北九州・五島方面への進出もあったらしい。彼らがクジラを追って佐渡へ至り、途中サンマに出くわしたとしてもおかしくない。
  3. 糸満漁師と紀州漁民の出会いがなせる技かもしれない。
と、このように、思ったということであります。
住民登録制度も無い頃のこととて、調べるといっても、土地土地の寺の過去帖をめくったり方言の調査などしたりが中心になるのだろうけど、腰を据えなきゃできっこない。
Kiyo Kamijoh 2002.06.02 ご返事が送れて済みません.1〜3までについて考えてみました.
1.について
 糸満の漁業は、明治初めに水中眼鏡が発明されてから大きく発展したと記憶しています.
とすると江戸時代からあった佐渡のさんまつかみ取り漁業の伝播に繋がるといえるかは分かりません.
紀州でのつかみ取りが何時始まったかによります.
江戸時代に西九州ではあわび漁の指導を受けるため、紀州の漁師を招聘したということは読んだ覚えがあります.
 又、富山湾、紀州灘は古くから有名な定置網漁場ですから 、漁業者の交流があったとも考えられます.
ただ定置網の全国的な拡張も明治期に入ってからの事ですから、これも多少無理があります.
 にしんについてですが、名古屋に行くとおそば屋さんで普通に「にしんそば」を出しています.
北海道のにしんが日本海経由で関西方面に流通していたことは、ご存じのとおりです.
当然、人の交流もあったわけで伝播の可能性があるのではと考えたのです.
もっともこれは、私の単なる推測で、裏付け調査が必要です.
家中総出で・・とのことですが、糸満の漁師がいわゆる家船スタイルで旅漁をすることは少なかったのではと思いますが、どうでしょうか.
 糸満の射程距離・・意味は分かりますが、沖縄らしい苗字が黒潮流域沿岸に残っていないので、人の移動はあまりなかったのではないかと思います.
Kiyo Kamijoh 2002.06.02 2.について
前段はおっしゃるとおりだと思います.紀州の漁師が鯨を追って日本海へ至り・・は浅学にして確認できません.鯨漁は領主の承認が必要だったのではないかということ、山口県の仙崎付近でも鯨漁が盛んだったこと(紀州との技術交流については分かりませんが)を考えると一概には言い切れないと思います.
3.について
 糸満の潜水を中心とする漁業技術と紀州の浮魚釣技術とは噛み合いにくいのではないかと思います.某所で一緒になって、世間話として交流することはあったかも知れませんが。

スケール大きな仮説で素晴らしいと思います.足を引っ張るようなことを書いていますが、本意ではありません.実証するために踏み石のつもりですから、ご了解下さい.
波平 2002.07.22 Kiyo 氏に教えていただいた,「日本漁具漁法図説」、高かったけどさっそく買い込みました。
とってもおもしろい本であります。
また、調べてみると、潟Gヌ・テイ・エス発行「現代おさかな事典」におもしろい記事があって、
1. 北海道奥尻島でも手づかみ漁をやるらしい。
2. 手づかみ漁では、一度に5〜6尾もつかめるらしい。
3. 江戸時代の灯油はサンマの脂が多かったようだ。
4. また、
7月9日の道東、厚岸・牡蠣アイス氏からの、サンマ初水揚げニュースがことのほかおもしろかったですね。短文だったけど、氏の言葉からいろいろなことがわかります。
初水揚げは7月9日。だから取ったのは8日の夜でしような。
場所は知床を回りきらぬ太平洋側だったろうね。厚岸漁師のたて網漁だもんね。
ということは、このときのサンマはこれからオホーツクへ向かう途中に取られたってこと。明らかに北東太平洋系の魚群ですな。
牡蠣アイス氏のサンマたて網を潜り抜けた魚群は、いま頃はオホーツクは親潮のなかで餌をあさっているに違いない。
この魚群は、秋になるとまた知床を回って三陸沖に帰ってきますよ。
このころに取れたサンマ、わたし毎年送ってくれる人があって、サシミにしたり焼いたりして賞味していますです。
5. それにしても、いちど手づかみ漁を見聞したいものであります。どこかに伝手はなかしら。
6. その後の、牡蠣アイス氏のサンマ漁の様子が知りたいです。何センチくらいなのが取れているのでしょうね。牡蠣アイスはどうやって食っておられるのかしら?
7. わたし、先ごろ、サロマ沖でホッケをさんざ釣って、開きにしていたけど、あちこち差し上げたり、自分で食ったりして、あらかた無くなっちゃった。
8. こんどは、できれば、サンマ手づかみ釣り(漁)してみたいなぁ。たくさん掴んで開きにいたしましょう。
gaku@信州 2002.07.22 ほんと、ボクもいちばん興味があります。
サンマが手づかみとは、生態を知るうえでもボクにとっては、スゴイことです。
佐渡沖では、「むしろ」を浮かせて手の入る穴をあけて、そこに手をいれて待っている・・・・・
そんな文献を、どこかで読んだことがあります。
サンマって、イワナやヤマメのように、体がつるっと滑らないのかしら・・・
手づかみをさせてくれるところがあったら、ボクは1匹だけでいいから、捕まえてみたいです。
髭野鯰 2002.07.23  秋刀魚の手づかみ漁については、5年くらい前、佐渡でまだやっている方がおられたと記憶しています。
  どうしてもと言われるなら、新潟県の水産課もしくは、地元の佐渡地域振興局、新潟県水産海洋研究所佐渡水産技術センターへお問い合わせください。
Kiyo Kamijoh 2002.07.23  佐渡のサンマ手づかみ漁は、5年程前まではやる人がいたそうです.
それも生業と言うよりは観光対象だったそうです.
しかし、その人が亡くなってしまったので、それ以後はやる人がいないのだそうです.
ニシンなどと同じく岸による魚群が減っているのでしょうね.
波平 2002.07.23 あぁ、やはりそうでしたか、
新潟県・佐渡など等、サーフィン旅しても、さっぱりわからなくて、ダメだなこりゃと思ってました。
いや、なに、時期がきたら現地へ思い切って出かけてみようと思ってましたから…
“サンマ”、あとは、もう目黒的(落語)に炭火で焼いて食うしかないか。
ところで、サンマは、日本海側と太平洋側と、別々の魚群らしいですなぁ。
どちらの方が美味しいのでしょう。
オイラの方のサンマが美味いに決まっとる”なんて、お国自慢があるのかな。
興味本位の遊びですけど、並べ食ったらおもしろいかもね。



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